2010年02月12日

ハーレムギャルゲーの終焉は『ひぐらし』でも描かれている

 どうも、相羽です。

 去年(09年)の暮れ頃に、『ときめきメモリアル4』の隠し(なのかな)ヒロインが話題になったりしました。

 特にサブカルチャーを視座に入れながら批評的な活動をしている方々のブログやTwitterで話題になっていた感じがあります。たとえば、いずみのさんのこのエントリなんかが参照できます↓

『ときメモ4』と『生徒会の七光』がゼロ年代最後尾のリリースであることの意味/ピアノ・ファイア

 少し乱暴にまとめてしまうと、00年代、オタク達は、ギャルゲーなりハーレムアニメなりで、俺たちは複数のヒロイン達からよりどりみどりに選べる、わーいみたいに喜んでいた所に、00年代の終わり、ヒロインの一人がヤンデレ化して、「誰でも選べるとかどういうこと? どうして私一人を選んでくれないの?」と逆襲にやってきた、みたいなお話です。

 この話を聞いて僕が思ったのは、これは既に『ひぐらし』でメタフィクションとして描かれていたな、というものです。

 それは、『綿流し編』&『目明し編』の魅音&詩音。

 詩音っていうのが、この編だと悟史くんラブな余り狂気に染まっていく一応ヤンデレの雛形的なヒロインなんですが、注目すべきは、詩音がヤンデレ化、バッドエンドに至ってしまう分岐が、例の「ぬいぐるみを魅音に渡すか、レナに渡すか」である点でしょう。

 魅音に渡すのを選択して、一人のヒロインに一途な態度を示せば、詩音によるヤンデレの逆襲は受けない。一方で、レナに渡すかなー、どうかなーみたいな曖昧なハーレム状態に逃げると、詩音からのヤンデレの裁きを食らってしまう。スクールデイズが話題になった頃にトピックに上がったヤンデレの構図に似ていますが、『ひぐらし』に既にもの凄い高いレベルでメタフィクションとして組み込まれていたと思います。

 『綿流し編』&『目明し編』のクライマックスは、魅音になりすました詩音を、圭一が見抜けるかどうかです。これはつまりはヒロイン側からすれば、私の代わりはいるのか、いないのか? という話。見抜けたんだったら、やっぱり魅音は圭一にとっての代わりがいない特別なんだ、ということになり、見抜けなかったら、結局魅音でも詩音でもいいのね、誰でもイイって言うギャルゲー・エロゲーのハーレム構造に溺れたダメ人間なのね(笑)っていうことになるという話です。

 また『ひぐらしのなく頃に』の凄い所は、この「ヒロインに代わりがいるのか、いないのか?」というわりとミクロな主題が、一番大きいマクロな作品テーマ、「世界に代わりがあるのか、ないのか?」という主題とリンクしている点です。

 圭一が複数いるヒロインから、ただ一人魅音というヒロインを選ぶ決断を下すということと、梨花ちゃんが、沢山あった世界から、このたった一つの世界に賭けると決断して「祭囃し編」に挑んだ覚悟とが、意味合いとしてシンクロさせて解釈できるように描かれています。この辺りは、本当ひぐらしの物語力は圧倒的。

 「多世界解釈」ネタは、価値観の多様化が進みすぎて、正義どころか世界観まで相対的になってきた感のある時代を受けてか、『ツバサ』や『仮面ライダーディケイド』と、09年に00年代の幕を飾った物語でも顕著だった訳ですが、今回のハーレムとヤンデレの対照構造も含めて、『ひぐらしのなく頃に』は本当決定的に00年代の物語のストリームを体現し、また牽引した存在だったんだなーなどと、改めて思ったのでした。

 あとこの辺りの話は僕の07年の「ひぐらし」同人誌「Mion's snow」で総括したつもりなので、そっちの方もよろしくです(^_^;

posted by aiba at 09:02 | ひぐらし雑記

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